本を読んでいると、「あの時読んだ本はなんだったかなぁ」と思い出せないことってよくありますよね。その対策として私は読み終えた本の内容と簡単な感想をメモにしているのですが、折角ならば一つの記事にしてしまおうというのが今回の試みです。
とはいえそれほど読書量が多い口でもありませんので、とりあえずは各月ごとにまとめてみようと思います。
今回は、そういうお話です。
では以下、2月に読んだ本になります。
雑誌やコミックス、ラノベ等は除外してあります。また、タイトル、著者表記は
タイトル/著者/出版社/(読了時の評価)読んだ期間
となっています。評価基準はアルファベットの5段階とし、
S:ぜひとも蔵書に加え永劫手元においておきたい
A:蔵書に加えたい
B:面白いけど買うほどでもない
C:いまいち
D:お察し
です。5段階ではくくりが大まか過ぎるので、さらにプラスマイナスの基準も設けてみました。
なお、これはあくまで私見ですので、ご自身の好きな著作が低評価だったとしても「こいつ見る目が無いなぁ」と笑ってご容赦ください。また、いかなる場合であっても著者や著作を悪しざまに言うつもりもございません。
それと、本来このメモはブログにアップする前提で書いていなかったので、文は敬体ではなく文体です。こちらも併せてご了承ください。
火薬のはなし/松永猛裕/ブルーバックス/(B-)2/2-3
火薬・爆薬についての本。火薬と爆薬の違いとは? というところから始まり、使われている化学物質や、加工品の構造、更には法令まで網羅している。一般的向けではあるもののギブスの自由エネルギーやエンタルピー、回転スペクトルの話など、それなりに化学(特に物理化学)の専門的な知識が必要な部分もある。もっとも、大筋に影響はないので読み飛ばせばよい。火薬・爆薬の用途に触れた章(花火、岩盤採掘、その他知らないような利用法まで)は特に専門知識も必要なく雑学的に読める上、花火の構造などは日常生活でウンチクを語るのにも好適なので、話のネタにする分には十分な内容。ただ、文章は正直あまり上手くなく、分かりづらい書き方があったり、同じことを何回も繰り返し書いたりしており読んでいて疲れる。
帝国大学の誕生/中山茂/中公新書/(B+)2/5-6
帝国大学(東大)黎明期についての本。帝大が如何にして帝大になったか、その再編に次ぐ再編の歴史と設立の目的、明治政府設立に伴い課せられた使命や周囲との軋轢等を俯瞰できる。そもそも帝大はどうやって興ったのか、どういう役割を期待されて生み出され、そのために海外大学を手本にしたところ・独自性を貫いたところは何か。輩出される人材はその後の日本とどうかかわったのか、帝大とそれ以外の大学の立場的な違いは何か……などがまとめられていて分かりやすい。現在でも東大閥は日本の中枢を占めるわけだが、なぜそうなったのかもそもそもの帝大に課せられた役割を鑑みれば納得といったところ。読むと、「東大に行けば良かった」「東大を出ることって日本社会で思った以上に重要なんだな」という気にさせられ、ややコンプレックスにさいなまれる(もっとも著者は文中で「帝大という虚像に振り回されてはならない」旨論じているが)。学閥などの勢力争いが好きな人には楽しめると思う。唯一不満なのは、文中に当時の人名や書簡の引用(言い回しも当時のママ)が出てくるのだが、ほとんどカナが振ってないところ。特に人名は「そう読むのかよ!」というのも結構あるので……。ちなみに、この本の中では「帝大=現在の東大」なので、それ以外の旧帝大はほとんど出てこない。唯一自由主義的な京大が比較対象として時々上がる程度で、それも2,3行ほど。
ナショナリズム入門/植村和秀/講談社現代新書/(C)2/12-15
昨今何かと話題になるナショナリズムについての本だが、右だの左だのという思想的な部分は皆無で、中立的、かつ基礎的な事項だけを押さえている。ナショナリズムとは何か、ナショナリズムはどのようにして形成され、それはどのような意味をもたらすのか、というのが序盤の内容で、後半は日本をはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、中東といった各地におけるナショナリズム形成の歴史的背景を追っている。日本のナショナリズム形成についてはまだしも、他国の形成はなかなか直感的には理解しづらいところもある。ただ、他国のナショナリズム形成の歴史を追っているうちに、各国の思想を支える背景がおぼろげながら見えてきて、それが現実世界での外交姿勢とリンクしてきたりすると面白い。日ごろからニュース等では様々な国際問題が報じられているが、そこに各国の歴史的思想はどう反映されているのか、某国はなぜそういう政策を選んだのか、単純な利害からだけでは計り知れない思惑を垣間見ることが出来ると思う。そういう意味では、まさに「入門」にふさわしいかもしれない。
文体はですます調で一見優しげだが、集中して読まないとすぐに内容が頭の中でこんがらがってくるのは、私がこういう分野の本を読みなれていないから?
マダムと奥様/辻仁成/光文社文庫/(C-)2/1-15
ご存知(?)辻仁成のエッセイ。1テーマにつき数ページで終わるので、空いた時間にちょっとずつ読める。実は私は辻仁成氏のファンで、氏の著作は大抵手元においている。私が氏の著作に初めて触れたのは中学生のころで、確か、夏休み前に配られる『文庫100選』みたいなガイド目録に氏の著作が並んでいたことがきっかけだったと思う。が、この頃はとんと遠ざかってしまっており、いくつか買い逃した著作が出始めてきて今に至る。本の嗜好が小説から実用書へと変わってきたことがその一因のように思うが、ともかく今回は、エッセイならば読書の息抜きの読書にも好適だろうと選んだ。
読んだ感想は、残念だが過去のエッセイに比べると面白くない。わざとらしい廃頽的な感じというかキザな感じというか、格好つけすぎな格好よさに惹かれて私は氏にのめり込んだのに、そういう毛色があせてしまったように思う(まあ、氏も歳をとるわけで、年齢とともに考えも文体も変わるのは自然であろうから、過去の作風に拘泥するのはただの私の懐古主義かもしれないが)。如何にも「幸せな家庭やってます、いいパパになろうと奮闘中です」的な内容は、過去の氏のエッセイに基準を置いている身としてはやや戸惑うとともに不満。また、文の語り口調が「~でございます」「~なのでありましょう?」など、どうもわざとらしい。著者が辻仁成氏なので私は我慢して最後まで読んだが、そうでなかったら間違いなく断念していた。それくらい気持ち悪い。それと、本の中では氏の政治的な意見も述べられているが、今となっては「何言ってるの」的な部分も多く、お世辞にも政治には明るいとは言えなさそう(最も、当時の時事問題について後からあれこれ言うのはフェアではないことは承知の上だが)。少年のころ、氏に対して憧憬の念を抱いていた私をことごとく幻滅させてくれる、やや残念な本。もっとも、この「マダムと奥様」は週刊誌に連載されていたものを収録したものということなので、読者層を最初からある程度絞って、内容にもバイアスをかけて書かれたと考えれば無理からぬことともいえる。
ちなみに、散々ぼろくそに書いたものの、つまらない話だけではなく、中にはページが進むようなテーマもあってやっぱり面白いなぁとも感じたりもする。願わくば、完全書き下ろしのエッセイが出ん事を。
科学と宗教との闘争/森島恒雄(訳)/岩波新書/(B)2/16-18
あまりに有名すぎるガリレオの話を引き合いに出すまでもなく、かつて科学は宗教によって弾圧されてきた。その科学がいかに宗教と戦い勝利を収めてきたのかを記した本。これはひいては、人類が聖書や経典を唯一の指標とした盲目的な思考から、自らを客観視できる思考へと成長してきた歴史ではないかとも感じられる。以前から私は科学の徒として、信仰心が篤い国外の科学者は自らの信奉する宗教と科学とをどのように折り合いをつけているのか疑問だったため、その理解の一助になればと思い本書を手に取った。本書ではその中で、特に肝要な点として次のように書いている。
『科学の敵は宗教ではなく神学(神学的ドグマチズム)』
科学は確かに虐げられてきたが、それは宗教と敵対関係にあったからではない。ただ、時の為政者が自らの後ろ盾としている教義と矛盾する科学を抑え込もうとしただけなのである。科学と宗教は決して相反しないし、共立することが可能な存在である。むしろ互いを認めあうことで双方成長・理解を促すことが出来るものであり、なんら科学は宗教を侵害するものではないのである。そういう意味では、上の私の疑問の一部も多少は解消したように思う。
なお、著者は敬虔なキリスト教徒であり、本書も、科学に加えられた為政者からの弾圧を記したもの。宗教自身への批判ではないので、念のため。
江戸のセンス/新井修、いとうせいこう/集英社新書/(B)2/19
江戸の「粋」とは何かについて、具体例を交えて説明している本。遊び心や自己顕示欲を思いっきり前面に押し出してしまってはただ下品なだけであり、それを如何に上手く隠しつつもさりげなく示すか、そのために江戸っ子はどういう工夫をしてきたのか、など、まさに読んでいて「粋だなぁ」と思わされる。本書の中の、「物を知っている人ほど良いデザインを作る」という旨の表現はまさにその通りで、更に言うなら物を知っていなければその粋なデザインにも気付けないのだから、「分かる人だけが分かる」というのはある種の知的さを伴った高等な遊びの一つなのだろうと深く感心した。
文体は語り口調で読みやすく、文字の密度も低いため、2時間かからず読み終えた。
物理学とはなんだろうか 上・下/朝永振一郎/岩波新書/(A-)2/19-2/26
彼のノーベル賞受賞者、朝永振一郎の著作。物理学の発展の歴史を、天文学、化学、原子論、などのジャンルごとに俯瞰している。物理学黎明期のころの話は「科学と宗教との闘争」にも近いものがあるが、こちらは科学の発展にフォーカスしているので内容がかぶるというよりは相補的な要素が強く、読んでいて退屈に感じることは無かった。
この本で特に注目すべきは下巻最終章の「科学と文明」。他の章も読んでいて面白いのは間違いないが、科学(物理学)史についての著作は世の中に色々あるわけで、それだけであればこの本もあるいは凡百のそれとなり果てていたかもしれない(というのはあまりに失礼だが)。しかしこの本の価値は、最終章で述べられている朝永振一郎氏の物理学観、あるいは哲学へと凝縮されており、前章までの科学史は長大なプロローグのようにさえ思える。
最終章では、今後人間は如何にして物理学と向き合うべきか、物理学はどういった方向へ進むべきかについて述べられており、これはそのまま現代の科学技術を取り巻く環境と合致する。特に、兵器利用される物理学は本当に人類を幸せにするのかという問いかけについては考えさせられるものがあった。氏は、「物理はただの知識であり、それを正しく使うかどうかは各人による」という意見(要するに「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」という見解)に懐疑的であり、知識があるなら使わずにはいられないのが人間だ、としている。この辺りの科学者倫理は現代の学者間でも見解が分かれるところではあるが、自分の中での倫理観に対する一つの指標を打ち立てる上でも、一読の価値はあるように思う。
氏は、自然と科学の関係について、「『自然』はベールをまとって素顔を隠しており、そのベールをまくって素顔を明らかにするのが『科学』である」と述べている。ノーベル賞のメダル裏面にそういう刻印がなされているらしいのだが、けだし真理である。
理系の人間なら一度は読みたい名著ではあるのだが、ある程度科学史を知っている人間としては前半は冗長な印象を受ける。私としては最終章だけで十分なので、そこだけを別冊で刊行してほしい。
内容は平易で、文理問わず理解しやすい。専門的知識(といっても高校物理+α程度)の必要な記述は注釈扱いとなっているので、苦手意識のある人は読み飛ばせば良いし、より深く知りたい人は精読すれば良い(どちらにしろ、大勢に影響は無い)。
有頂天家族 二台目の帰朝/森見登美彦/幻冬舎/(A)2/28
気鋭の小説家、森見登美彦の新作。私は氏の著作は太陽の塔からはじまりこの新作に至るまですべて網羅しており(文庫が出てるものはハードカバーと文庫両方持っている)、更にいうなら四畳半神話体系のアニメBDも有しているといういわゆるファンであり、本書は待望の一冊であった。
実用書とは異なり、小説の内容について触れてしまうのはマナー違反であろうからこれについては避けるが、氏特有のフワフワとした軽妙洒脱な文体は健在で、楽しげで妖しげな京都の街をありありと思い描くことが出来る。氏は新作の発表が鈍いうえに、「聖なる怠け者の冒険」は若干精彩を欠いていたように感じたので一抹の不安を覚えていたのだが、全く以って余計なお世話、杞憂であったというほかない。早くも次回作が待ち遠しい。
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